今週の読書 -下流志向-
ず~っとモヤモヤしている何か。。。(輪郭も見えない)
最近、そんなことをふと何だろう?と考えたり。。。
そんな中で、たまたま出逢ったこの本。
一気に読んじゃいました。
等価交換の価値観により、自己決定・自己責任で選択していることが、
実は構造的弱者を生み出しているという話。(ものすごくおおざっぱですけど)
『等価交換』、私も基本的にその価値観で学生時代ずっと生きてきたなぁ…と。
でも、それと同時に『この価値観は、全てにおいて可能なのか?最後は、どうなっちゃうの?』とずっと思ってた。
等価交換への疑義
現実の世界は、特に日本は、会社においても、いろんな価値観を使い分ける必要性があるのだと思うのだけど…
そりゃ、ビジネスにおいては、等価交換の考え方は当たり前だし、そうでなきゃ利潤なんて追求できない。
でも、等価交換なんて、ほんとは幻想なんじゃ?
消費主体が自分が手に入れようとしている商品の価値をきちんと理解していることが、等価交換の原理原則だけど、それは時間的活動の中で見出される価値は全く加味されてない。(そしてその時点においての自分ができる価値判断だけによるから、自分の無知については勘定されない。)
ものすごく即物的。
だから等価交換への疑義は、金銭による・よらないに関わらず存在するのではないかと思うわけです。
『義を言うな』
そうそう。
朝ドラを観ていて気づいたのですが、昔は、
お手伝いなどの家庭内労働と勉強が、ほぼ同格に捉えられていたのですね。
お手伝いをすることにも、勉強することにも理由なんていらない。
だから『こんなこと勉強して何に役立つの?』と言われても、
それに答えをわざわざもっともらしい答えを用意する必要さえない。
そんな質問には、『義を言うな』という答えで十分かも。
私の故郷の言葉なのですが、意味としては、
- 屁理屈を言うな
- 言うこと自体がみっともない
- 分かった口をきくな
と、無時間な則物的な物言いを一言で封じてしまう言葉。
後からわかるのですよ。。。意味があることに。
そして意味がわかったときに、自分の無知を改めて知るわけです。
これは、等価交換の価値観の中で生きていると、できない経験。
いつまでも いつまでも、自分が無知であること、
そして考え続ける事の大切さは、親として子供には伝えたいなあ。
思考するために、最低限の学びは、やっぱり必要。
この点は、自分自身の反省点が沢山ありすぎますが。。。(T_T)